NO.59
林 魏堂
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林 魏堂(はやし ぎどう)です。

自分について語るとき、この奇妙な名前と日本人離れした容姿についての説明は、もはや端折れまいと、ようやく最近覚悟が決まりました。

私は母がドイツ人だったので、はじめ、GUIDOというドイツではポピュラーな名前を付けたかったようです。
父が日本人の意地を見せ、何とかひねり出した当て字を記憶するのに、小学生の私は四苦八苦することになります。

伯父が言うには、私は当時から祖父が聴くクラシックのレコードにじっと耳を傾けている奇妙な子供で、いくらか将来が心配になったようです。

下手の横好きとはよく言ったもので、特に生来優れた音感に恵まれていた訳でもない私は、ただ好きというだけで、それからもずっと音楽と離れられずにいます。

いつだったか、寄席で落語を聞いていると、睡魔に襲われました。
このまま寝てしまおうか、いっそ表に出ようかと朦朧としながらも逡巡していると、色物のお姉さんが三味線を奏で始めました。
気が付けば、眠気は吹き飛び、背筋はぴんと伸びている。
この時ほど、結局、好きというだけのことなんだ、と気付かされた瞬間はありませんでした。

それがたまたま絵画や料理や建築ではなく、私にとっては音楽だったということでしょう。

ところが、絵画を志した者がデッサンから、料理を志した者が厨房の下働きから始める、というのは容易に想像がつきますが、作曲を学びたいと思い立って門を叩いたその師匠から、先ず、これからだ、と和声の教科書を渡された時には、何だこれは、と当惑したことを今でも覚えています。

そして私は、その時の違和感を今に到るまで抱き続けているように感じることがあります。

「昭和物語」というアニメーションの音楽を担当した際、制作に先立って、番組のターゲットが比較的高い年齢層である、ということを何度も念押しされました。

私は、ポール・マッカートニー氏の大学で学んだ経験もあるのですが、間近に見た彼は、当時ですら結構おじいちゃんでした。
ビートルズの全盛期からぼちぼち半世紀が経とうとしていることを考えれば、高い年齢層だからと言って、さほど保守的になる必要はないのではないか、とも思いましたが、ともかくも消化の良い食べ物を求められていることは間違いなかったのです。

さて、そこで私は、ピアノ、バイオリン、チェロ、という伝統的な花形楽器を中心に据え、親しみやすいメロディーに重きを置いた作品を、という指針を自らに課して制作に臨むことになります。

その途端私は、とっくに掘り尽くされ、 折れたツルハシやらスコップが置き去りにされた炭坑に足を踏み入れたような気分になったものです。

あの日かけられた、和声という呪縛が、作曲という行為に於いてこれほどのジレンマだとは、余程の慧眼の持ち主でもなければ、ゆめゆめすぐには気が付きますまい。

音楽を受け止める人の多くは、響和音と音重力の作用を求めながら、他方でそこには純粋な自由が存在すると信じている。そして、それが実際に社会にあっては最も多弁な音楽であることを、本当は作り手の多くも気付いているのではないでしょうか。

こうした葛藤をひた隠しにしながら、潔く勝負しなければならない。私にとっては正に背水の陣であった訳です。

そうして、結果的にこの作品が多くの視聴者の方々に支持して頂けた時には、安堵の余り腰が抜けそうになりました。

聴覚と、それに訴える芸術とは、実に独特なものだと思います。
唯一無二のジレンマと唯一無二の感動がそこにはあります。
その一翼を担えたと思える人生であったらなんと幸せかと、そう考えながら、今日も千里の道をちびちびと進んでおります。


※掲載は所属当時

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