NO.113 2021.4.12

京 建輔

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小生は今年83才になりました。
小学4年生のとき全学年に縦笛が与えられました。それが小生の笛類の始まりです。
夢中になって吹いているうちに半音の音が出せるようになりました。学級で一番でした。
中学一年になった時二つ上の兄が学校の物置から古いトランペット2本 クラリネット2本 アルトホーン テノールホーン 小バス 打楽器類がでてきたのでクラリネットを持ち帰ってきました。ケースにリードが数枚ありましたの初めての事で色々試しているうちに音が出ました。なけなしの貯金箱から教則本を手に入れて夢中になって稽古をしておりました。しばらくしてプラスバンド部を作ろうとゆう声が上がり、其の頃出来た京都市交響楽団のCLAの先生が指導に来てくれました。三学期頃になると何となく形になりかけてきましたが(旧友)の譜面でやっていると(トリオ)になるとメロディーがなくなります、譜面をあちこち探していく内にフルートがメロディーを吹くようになっております、仕方なく小生がフルートのパートを吹き忙しい事だったと懐かしい想い出です。
高校生になった頃アメリカからベニーグッドマン物語 グレンミラー物語 五つの銅貨 等々映画が公開されてすスイングジャズにのめり込みました。
同志社大学に入りオケ入ろう思い入部するとクラリネットが6 人も居てこれは出番が無いなと思っていましたら軽音楽部に中学の同級生(小生2年浪人)が3 回生でいまして(やっさん)デキシーのクラが居なくなったので助っ人頼むと言って来たので軽音楽に入ることになります。
2学期の終わり頃関西で1、2の高級ナイトクラプ(ベラミ)のコンボバンドから突然オファーが有り、クラの方が猪俣さんのウエストライナーズに引き抜かれたので来てくれとの事、プロと一緒は到底無理ですと断ったのですが大学の秋のコンサートを聞きOKと言われて入ることになります。毎晩6時半から12時まで5ステージです。
先ずはバンマスターからあずかったメモリー帳を写す、全部原調で書かれています、バンマスは原調で写しておけ、あとで転調の為になるからといわれました。
大学は中退して夜はクラプ朝からはCMの録音等スタジオ巡り夜中は撮影所で映画の音どり(当時は週3本封切りの時代)一日中吹きまくっていました。
29才で上京なんと(歌って踊てのグループ)に入りました、今から思うと無茶をしてましたね。
因みに紅白歌合戦に一度だけ出ましたよ!
2年後に退団して音楽出版社に入りますがサラリイーマンはしんどかった。
音楽出版社なので各レコード会社の制作部に出入りする内にアレンジなどに口をだすようになり、ある日某デレクターから箱崎晋一郎のB面(抱擁)が北海道の有線で評判良いのでアレンジを変えて出したいと、安野さんやってみないか、と電話がありました。それでクラプ風にアレンジしたのが当たりました。
退社をしてフリーになり色んなアレンジをやっているうちに(すきま風)(北国の春)等が出てやっと(おまんま)が食べられるようになりました。
今83才オファーあれば今でもやる気満々ですが。。。。。。。。

話は変わりますがいま日本古来の楽器が大半シンセでアレンジされている様に思います。琴や三味線等々その楽器独特調弦で響くので単にドレミ音階では良い響きが聞こえて来ない様に思います。(エレキ三味線などは別の楽器と考えられると思います。)
古い年寄がなんだかんだ言ってるますが詰まらない愚直と聞き流して下さい。
いまコロナ騒動で大変です、お互いに身体を大事いたしましょう。

京 建輔



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