NO.33 2005/1/13


 

 

村松崇継 TAKATSUGU MURAMATSU


 作曲家になろうと決心してから、早くも12年…。 とにかくがむしゃらになって走ってきました。 そして、やっと作曲家の端くれとして、活動 しだして本当に毎日が新しい発見ばかりです。 僕は、現在26歳。いたって普通の家庭に生まれ 音楽とは疎遠な環境で育ちました。静岡の片田 舎の何もない町に生まれた僕に、その当時、教育熱心だった母親は、色々な習い事を押し付け ました。でも、どれも僕の飽きっぽい性格のお陰で、長続きはしませんでした。唯一続いたのが、ピアノでした。
僕の習った先生は、本当に厳しい先生で、何 度も挫折して止めようと思いましたが、いつも 「ここで止めたら、今まで先生に怒られた自分がバカバカしい」「努力が水の泡になる」と思いとどまりました。
今では毎年夏休みは、ピアノのコンクールの為に必死になっていた自分を思い出します。 作曲に目覚めたのが、小学5年の頃だと思い ます。先生が、「このモチーフを使って一週間 で曲を作ってみて」と宿題を出してきました。 普段から楽譜を作り変えて弾いてしまう癖を知っていた先生からのひとつの提案だったのかも知 れません。そして出来上がった曲が切ない感じの曲で、僕は「晩秋」というタイトルをつけま した。ただ秋に作ったというだけの理由です。 徐々に作曲に興味を覚えた僕は、テレビやラジ オから流れてくる曲を耳でコピーしてピアノで 弾くことや、即興で演奏することがストレスの 発散になっていきました。
中学生になると吹奏楽部に入り、サックスをやりたいと希望しましたが、トロンボーンに回 されてしまいました。それまで主にピアノの譜面 しか見たことがなかったので、吹奏楽のスコア やサウンドは自分にとって新しい音楽の発見で した。この頃顧問の先生から、運動会用の45秒 位のファンファーレの作曲を頼まれて、必死で 作った思い出が蘇ります。そこから吹奏楽や管 弦楽等への興味が広がっていきます。中学3年の進路指導の時に、将来なりたい職業の欄には 作曲家と書いてしまう程、のめり込んでいった のです。でも、一体どうしたら作曲家になれる かなんて知る由もありませんでした。その後は 家から見える風景や情景を毎日1曲ずつ作りた めていく様になり、また、少ない小遣いを貯め ては映画のサウンドトラックのマニアとなりま した。
真剣に音楽大学の作曲科に入るべく、習ってい たピアノの先生の紹介で、作曲の先生の元へ通い始めました。和声、対位法とまるで、数学の問 題を解いているような感じでしたが受験の為で は仕方がありません。やっとの思いで、国立音 楽大学作曲学科に普通高校から進学しました。
大学では、音楽漬けのとても楽しい生活でした。ただ、現代音楽を書くことは少し抵抗がありましたが…。ゴスペルやビッグバンド等の音 楽に参加することもできたので、今までにない 音楽の幅を感じました。地元浜松のコンテスト で賞をもらってから在学中にピアノのソロアル バムでCDデビューしていた僕に、卒業間近に なって、角川映画「狗神」(原田真人監督)とい うホラー映画の音楽を担当するという話が舞い 込んで来たのです。泣いて喜びました。憧れていた映画音楽を作曲させてもらえるからです。 その後、がむしゃらに進んで来ましたが、2003年の秋に初めてのテレビドラマの仕事でNHK 連続テレビ小説「天花」のお話を頂き、冬に自 分の曲をスタジオで皆さんに演奏してもらって いる時に思わず泣きそうになりました。2004年の 春から本当にテレビから自分の作曲した曲が流 れてきたときには、本当に親孝行が少しできた ような気になりました。今、浜松の実家では、 大画面の薄型テレビが導入されています。
音楽で身を立てていくことは生易しいことで はないと、周りのスタッフから良く云われます。 音楽をやればやるほど自分の未熟さを知り、新 しい仕事と出会えば、また発見の連続です。今 後10年ぐらい経ったら、皆さんに"あいつの作 るのいいよね"と云われる位の存在になりたい と思います。
村松崇継という名前を皆さんに覚えていただける様、頑張ります。

  村松崇継

                      

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