NO.57 2010.10.15

入野禮子   Reiko Irino  


                                                        後編→  

「誰も知らない高橋冽子、誰でも知っている高橋冽子」

前編

「自己紹介」と「子育て」

 先ず「自己紹介」させて頂きます。

 55年前から教育の現場に立ち続けています。仙川の桐朋学園短期大学の第1期生として作曲科を卒業しました。2年生の時から学生でありながらソルフェージュの先生を仰せつかり2期生をも教えなければなりませんでした。卒業後教諭として採用されていましたが、5年経って4年制大学に昇格した時に3年に編入し又学生となり、先生でもあり、講師室から授業へ出席すると言う面白い体験を致しました。私は付属音楽教室から大学迄担当しており、ソルフェ^ジュ教育の他に、大学では和声学や対位法、キーボードハーモニー、理論ピアノ、高校の作曲実技も担当しました。学生寮の先生迄やり、毎週寮生の日誌を読んだり寮を見回ったりもしました。高校の北海道修学旅行へも2回も付き添いました。本当に色々なことを体験させて頂き、継母に小さい子供を預けての勤務は大変でしたが、後から思えば大変良い勉強になり、自信にもなっております。私が愛情を注いで必死に指導した生徒達が優秀な音楽家達に育ってくれたことは大きいな喜びです。

「子育て」

体調の悪い時、又入野義朗と結婚して29歳で子供を授かり、赤ん坊の具合の悪い時でも休む訳には行かず本当に辛い思いもしましたが授業をしている時は楽しく、やりがいがあり、没頭して了うのです。私は子供達や学生達と向き合っていると辛いことも忘れて終うのです。携帯の無い時代ですから1日の授業が終わると急に子供のことが心配になり急いで帰途に付き、子供を抱き上げる幸せを感じたものでした。しかし娘が成人してから「ママの愛情を感じたことがなかった」と言われたときはショックでした!何と言うことでしょう!今でもその言葉は忘れられません。作曲もしないで出来る限り子供との時間を作り愛情を注いで育てたと思い込んでいたのですからその言葉は大打撃でした。

 娘の受験の時にも精一杯世話をしたつもりでした。大学受験で慌てたことを思い出します。入野が独自のカリキュラムを創り大学設置にも尽力した高崎の音楽短大でしたが開校の数ヶ月前に彼は他界して了いました。しかし私は高崎迄週4日教えに行っていました。娘の大学受験にはお弁当だけ作って上げることにしていたのです。所がある日忘れたことに気が付き頭が真っ白になりましたが丁度その日に限って昼食用に「鳥めし弁当」を買ってあったのです。教授会が夜9時過ぎ迄あるので帰りには買うことが出来ないのです。その頃はコンビニも売店も夜は開いていない時代でしたから「助かった!」と思いました。翌朝それを蒸して娘に持たせました。

 夏休みは我々家族3人は軽井沢の家で過ごしました。

入野は毎日作曲したり読書をしたりして、時々東京迄仕事に通っていました。又海外の仕事にも2歳半から連れて歩きました。それは少しでも両親と一緒に過ごさせたいと言う思いからです。それなのに!!

 彼女が中3の時に父親は他界しました。

2010年10月 世田谷区松原にて

 

写真1:南インドケーララの正装(白いサリー) 

娘の入野智江ターラ(右)と筆者(左) 真ん中はインド人

        イリンジャラクダにて(2010年5月16日)

 

                                                         

 

                      

PAGEのTOP へ!