NO.63 2012.2.29

       横 健介   Kensuke Yoko      

敬愛する阿久悠先輩について書きたいと思う。

1997年、高校三年生だった年、僕が通っていた淡路島にある洲本高校は創立100周年の年に当たり、学校全体が沸き立っていた。すべては記憶していないが記念イベントがいくつかあったように思う。
その中で今でも覚えているのが市民会館にて行われた100周年記念式典。同校出身の阿久悠先輩をお迎えし、講演会が開かれたのだ。

ステージの上には阿久悠先輩とオーケストラ。

沢田研二、ピンクレディー、山本リンダ、石川さゆり、、、そのそうそうたる名曲がオーケストラによって演奏され、その曲間で阿久悠先輩がそれぞれの作詞にまつわるエピソードを語られた。
「作詞家の講演なのに曲をインストで流すのもどうなんでしょう。」と、観客を笑わせつつ。
そんな冗談を交えながらも日本の音楽を作ってきた先輩の話、音楽が大好きだった高校生の僕にとって伝説や神話を聞くのと違わず、興奮した。興奮の中、それでも心の奥底で僕は、偉大なる足跡を残してきたこの先輩に対して「上手いことやりやがったな。」と思っていた、あくまで敬意を持って。

阿久悠先輩の姿は音楽業界を牽引する大人の象徴として、けれどとても身近な存在として、僕の頭の片隅にいつも居る、気がする。

高校を卒業した僕は東京の大学に進んで建築を学び、技術職のサラリーマンになった。
それでもどこかに引っかかる「音楽に携わりたい」という想いが縁を繋ぎ、今の音楽作家の道の上に至る。

日々の制作の中で、描きたいと思った題材が先輩方々に先を越されている事実に気付く度、まるで採掘し尽くされた炭鉱の島に放り出されたような気分で途方に暮れる。それと同時に、先輩方々と同じフィールドで戦っている現状を嬉しく思う。どこかに先輩の見つけ損ねたものがあるんじゃないか、とワクワクする。

以前、手にした阿久悠先輩の著書。そこには言葉を失くした現代の日本人に対する警句が綴られていた。 クリエイターとして、先輩の芯の太さにはまだまだ及ばないと自認はしているものの、それでもそこに綴られた"言葉を失くした日本人"に該当する自分に溜め息が出た。なるほど、阿久悠にはなれない訳だ。

それでも諦めてはいない。「日本人が言葉を失くしてしまったのは一体誰のせいなんだ」と、好奇心の質問で先輩の深い懐に甘えたい気持ちもあるが、それは冗談として、今の日本人なりに今のままではダメだという焦燥感は僕も誰も持っていると思うし、生きていかねばいけないのだから。

阿久悠先輩は発言の中にヒントを残してくれている。

「高度成長以来、日本という国がスタスタと80cmくらいの歩幅で大股に歩いてきて、歩いただけの効果はあったと思うけど、もしかしたらその80cmの歩幅の中の70・75cmの所に、実はすごい良いモノがあったんじゃないかと。
これからは進むことも大事だけど、同時にまたいできてしまった良いモノをもう一回探して歩く時代かも知れない。」と。

今の自分が果たしてどこまでその"良いモノ"を探して歩けるかは分からないが、この"探して歩く"ことを先輩から引き継いだ有り難い課題として、ひとつ掲げてみようと思う。というより既に自分の中で自然発生的に掲げて日々制作しているように思う、上記のワクワクするくだり、確信に繋がる。この"探して歩く"旅の中で、歌謡曲・J-popをより深く昇華できる"良いモノ"や後世に残すべき"言葉"を見つけていきたい。欲張って言えば、先輩方々が誤って許容し、時に破壊してきたモノを、もう一度見つめ直して、必要なモノは再構築していこう、それが自分の使命だと思えば人生は楽しい。

僕が音楽作家になった年、阿久悠先輩は亡くなられたのだが、できればもう一度お会いして、答え合わせがしたかった。


                                      

 

                                                         

 

                      

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