NO.92 2017.3.22
                                  

   上柴はじめ Hajime Ueshiba 

 

上柴はじめ…大阪府東大阪市出身:大阪教育大学特設音楽課程作曲科卒業。

序文
私は名刺に「作曲・編曲・ピアノ・口笛」という営業品目を印刷しています。一体どれが本業?と聞かれたら「全部です」と答えるでしょう。 そうなんです、私は人様からの注文に対して全力を尽くして応えるという、いわゆる音楽職人であります。クラシック・ジャズ・ポピュラー・ミュージカル・映画音楽・バレエ・ダンス・歌謡曲・童謡・民謡などなど…あらゆるジャンルの注文にきちんと対応できる事が自分の役割だと思っております。音楽系大学での作曲専攻というのはピアノ科や声楽科などの演奏表現中心の方々と違って、どちらかと言うと裏方的なポジションにあると思います。歌手にとっての伴奏者であります。しかし、どのような注文にも応じられるような勉強は学校では出来ません。様々な現場を体験する事によってはじめて自然に身につく物だと思います。

上柴はじめ:パート@

大阪時代… 東大阪市の長屋に生まれた私は、小学校教師だった父親の影響で幼稚園の頃からハーモニカを吹いていました。当時の庶民の街にはピアノのある家なんてなくて、楽器と言えばハーモニカくらいでした。父は音楽が大好きで私をよくオケの野外コンサートなどに連れて行ってくれました。まだTVなどない時代に、私はラジオから聞こえてくる色んな音楽を聞いていました。しかし私が幼稚園の時に父が公私混同で小学校の映画鑑賞会に私を連れて行ってくれた時に、生まれて初めて素敵な和音の響きに出会って夢心地になりました。「オズの魔法使い」Over The Rainbowです。それまでに出会ったこともない色彩の和音の響き!これが私にとっての音楽の目覚めです。 小学校4年生の時に「どこかで春が」という唱歌を皆で先生のオルガン伴奏で歌ったのですが「ソーミラソーミーソーミラソドレミードレー」の「レー」の部分もドミソの和音のまんまでした。そこで私は先生のそばに歩み寄って「先生そこは伴奏の音が違いますよー」と生意気にも抗議したのです。先生はキョトンとした顔をされていました。また中学校の頃は父が購入したソノシート(ペラペラのプラスティック製の17pレコード)のクラシック名曲全集を聞いたあと、夜に銭湯へ行く道すがら、満天の星空を見上げては聞いたばかりのオケの響きを夢心地で思い返していました。その頃もまだハーモニカは吹いていましたが、吹く音吸う音の2種類しかなく、和音の響きが表現出来ない物足りなさを感じていました。

そんな音楽好きな少年だった私ですが、高校入学と共に人生が変わりました。大阪府立八尾高校という普通の公立高校ですが、そこで音楽担当の西田奎一先生に出会ったのです。先生は音楽の授業の宿題で何と生徒に作曲をさせたのです。私はそこで生まれて初めて作曲というものに挑戦しました。教科書に載っていたドボルザークの新世界の「家路」の歌詞を使って自分なりのメロディーを作って来いという宿題でした。私は家にあった 足踏みオルガンを使って和音付きのメロディーを作ってたどたどしい楽譜にして提出しました。そうしたら翌日それが音楽室の壁に百点満点の赤丸印で貼り出されたのです。「八尾高校初めての百点満点!」という紹介文と共に! それですっかり調子に乗ってその気になってしまい、音楽の道に進む決心をしたのです。そして貧乏長屋の両親に無理を言ってピアノを買ってもらい、先生のお宅にピアノレッスンを受けに通う日々が始まりました。しかし実は幼い頃、死ぬのが怖くて母親に「死んだらどないなるんやろう?」と尋ねた時に「作曲家になったら魂は永遠に残る」と言われた事が心の片隅にずうっとあった事も決心の後押しをしてくれたんだと思っています。

高校時代は柔道部に所属して毎日厳しい練習に明け暮れていましたが、合間を縫って和声学などの勉強をしていました。夢は恩師西田先生のような音楽教師になって母校に戻る事でしたので、私は大阪教育大学に進学しました。教員資格を取り採用試験にも合格しましたが就職口がありませんでした。たまたま新聞でヤマハ音楽振興会が新しい指導講師を募集しているのを知り、応募して採用されて社員になりました。当時のヤマハは川上理事長が音楽教育に並々ならぬ情熱を持っておられて、クラシックだけではない広いジャンルの音楽を取り入れようとしていました。 私は指導講師として合歓の郷の合歓音楽院の学生の試験に審査員として立ち会ったりしましたが、ジャズ・ポピュラーを勉強している学生達を審査するには自分の知識&能力のあまりの乏しさに呆れて情けなく、自分自身がもっと勉強しなくてはいけないと強く反省してヤマハの社員を辞職して大阪に戻り、キャバレーのビッグバンドのピアノ弾きとして一からジャズ・ポピュラーを勉強する事にしました。約1年10か月の会社員人生でした。大阪で音楽の色んな仕事をしていましたが、結婚を機に東京に出る決心をしました。29歳の時でした。
(パートAに続く)

◆ Hajime Ueshiba's Works ◆

 

                                      

 

                                                         

 

                      

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