NO.192002.10.3
原田良一と申します。子供は作らず、妻にも先に逝かれましたので、世に言う「孤独老人」ですが私自身は「花の独身!!」のつもりです。昭和五年生まれなので、小学校、中学校を通じて典型的な軍国少年でした。そこへ、衝撃的な昭和二十年八月十五日がやってきたのです。あの日の抜ける様な青空は、一生私の脳裏から離れる事は無いでしょう。そして、突然飛び込んできたのが、「進駐軍放送」(もはや完全な死語ですね。)の音楽です。それまで全然耳にしなかったリッチなサウンド、すばらしいジャズメンの演奏に、完全に虜になってしまいました。特にギターのチャーリクリスチャンにあこがれ、早速古いガットギターを買い込み、全くの独学で、それこそ朝から晩までギターを弾いていました。せっかく入った大学も同志を募ってバンドを組み、おきまりの、ジョンソン空軍基地、キャンプ座間、横須賀基地等で、演奏を初めました。今考えると空恐ろしい程の、下手な演奏だったと思いますが、当時、大学出の初任給が七、八千円だった頃に、五万円程度稼げたのです。こんな良い商売は無い、等と考え、当然大学もフェイドアウト。そして至る現在です。何となくモノホンのプロらしくなったのは、当時、女性ジャズシンガー、ナンバーワンと言われていた、水島早苗さん、(マーサ三宅さんの師匠です。)が主宰していた、「リズムランブラーズ」に加入した頃からでしょうか。その時のピアニスト、永田清氏からは「一日練習しないと、三日分退歩するぞ」と散々しごかれました。このフレーズは現在、アマチュアカラオケ大会の審査員をやる時につかわせてもらっています。「好きそこ物の上手なり。」アッ、「下手の横好き」というのもありますね。私は果たしてどちらだったのでしょうか。突如、話は変わりますが、私は釣も大好きです。多摩川べりに越してきた時、鯉を釣っている人が多数いました。それが旧態依然とした釣り方で、一日中やっていて二、三本しか釣れないのです。そこで私は、合法的且つ画期的な鯉の釣り方はないかと、磯釣りの手法に少々手を加えて、三年間程それこそ、雨の日も風の日も早朝六時から九時頃まで、バカみたいに多摩川に通いつめました。気候、水温等、もろもろの条件で魚のたまり場は常に変わります。結果、三年目には三時間で、五十本程の鯉が釣れるようになりました。それをききつけて、スポーツニッポンが取材してくれたのが、この写真です。釣とレコードセールスは妙に合致点があります。つまり魚、(レコード業界ではエンドユーザー)がいない所にはいくら良い餌(作品)を与えても食いついてきません。例の「孫」では日本中に魚がいたと言うことでしょうか。マーケティングリサーチの重要性を痛感しております。それはさておき閑話休題。
私は人類が歌らしきものを唱い出したのは何時頃、どんなキッカケでだろう。と考えることがあります。死者を弔う時、或いは、若さを謳歌する時、又、戦いの最中、そんな時に歌らしきものが生まれたのではないでしょうか。二十年程前、深夜放送で、アフリカ某国の弔いの歌を聴きました。それは正に、猿の声でした。猿は「キャッキャッ」とも鳴きますが、愛や哀しみを表現する時は「ホッホッホッ」と鳴きます。その弔いの歌は微分音を含んだ、すばらしく心にしみる歌でした。「ホ、ホ、ホッホッホ」という感じで、(文章で表現出来ないのが残念ですが)こんな所にも歌の原点の一つがあるのかな、と考えております。
今後の私には一つの夢があります。私含めた二本のギターとウッドベースのみで、かなりマニアックな演奏を、CD化したいのです。古希ライブも考えていたのですが、もろもろの事情で出来ませんでした。大のノンベエ、そしてブルース大好き人間なので、CDタイトルは「アルチューハイマーブルース」です。(実はタイトルしかできていないのですが。)
最近の若い人のライブを、暇をみつけては聴きにいっています。そこで感じたこと。打ち込みの音源で歌だけ唄う人が、かなりいることです。これは、もはやライブではない、と思うのですが、諸兄のお考えは如何でしょうか?世の中は嫌でも、すべてデジタル化していく様です。私はデジタルの機器、ノウハウを使いながらも、如何にアナログチックなしレコーディングが出来るかを、今後の課題の一つとしたい、と思っております。
◎原田良一(はらだりょういち) Profile
東京都出身 慶應義塾大学経済学部在学中より、馬渡誠一ブルーリズム、八木正生オクテット等でジャズギタリストとして活動。その後、スウィングウエスト、ザ・スペースメン等のリーダーを務める。昭和40年頃より、作編曲に従事。昭和44年より民音コンサートにて水原弘、フランク永井、橋幸夫、堺正章、井上順、西郷輝彦等の音楽監督を務める。昭和54年より、(株)日音の契約プロデューサーとして、吉幾三、三田村邦彦、伊藤雄之助等を手掛ける。昭和57年、(株)芸音でレコード制作部長として、ペドロ&カプリシャス、東京ロマンチカ、川中美幸等を手掛ける。昭和60年、(株)ベルミュージック副社長を経て平成元年より原田音楽事務所を主宰。日本クラウン(株)企画制作事業部契約プロデューサー
<主な作品>
作曲/哀愁(水原弘) 一人ぼっちでだいじょうぶ(雪村いづみ)他
編曲/昭和45「圭子の夢は夜ひらく」の編曲で、第1回日本歌謡大賞受賞。他に、TV主題歌として「おやこ刑事」、「江戸の激闘」等、TV、ラジオの主題歌、BGM等多数
原田音楽事務所 Project1 Project2
今後、日本全国に、あまねく配備されるであろう光ファイバー時代に適合した、スタジオ作りを考えています。候補地のビルには、ライブハウスが2ヶ所入っています。光ファイバーは、すでに配備済みです。リアルタイムで光ファイバーによる、ライブ配信が可能です。
求むスポンサー!! という感じです。
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原田良一
原田良一と申します。子供は作らず、妻にも先に逝かれましたので、世に言う「孤独老人」ですが私自身は「花の独身!!」のつもりです。昭和五年生まれなので、小学校、中学校を通じて典型的な軍国少年でした。そこへ、衝撃的な昭和二十年八月十五日がやってきたのです。あの日の抜ける様な青空は、一生私の脳裏から離れる事は無いでしょう。そして、突然飛び込んできたのが、「進駐軍放送」(もはや完全な死語ですね。)の音楽です。それまで全然耳にしなかったリッチなサウンド、すばらしいジャズメンの演奏に、完全に虜になってしまいました。特にギターのチャーリクリスチャンにあこがれ、早速古いガットギターを買い込み、全くの独学で、それこそ朝から晩までギターを弾いていました。せっかく入った大学も同志を募ってバンドを組み、おきまりの、ジョンソン空軍基地、キャンプ座間、横須賀基地等で、演奏を初めました。今考えると空恐ろしい程の、下手な演奏だったと思いますが、当時、大学出の初任給が七、八千円だった頃に、五万円程度稼げたのです。こんな良い商売は無い、等と考え、当然大学もフェイドアウト。そして至る現在です。何となくモノホンのプロらしくなったのは、当時、女性ジャズシンガー、ナンバーワンと言われていた、水島早苗さん、(マーサ三宅さんの師匠です。)が主宰していた、「リズムランブラーズ」に加入した頃からでしょうか。その時のピアニスト、永田清氏からは「一日練習しないと、三日分退歩するぞ」と散々しごかれました。このフレーズは現在、アマチュアカラオケ大会の審査員をやる時につかわせてもらっています。「好きそこ物の上手なり。」アッ、「下手の横好き」というのもありますね。私は果たしてどちらだったのでしょうか。突如、話は変わりますが、私は釣も大好きです。多摩川べりに越してきた時、鯉を釣っている人が多数いました。それが旧態依然とした釣り方で、一日中やっていて二、三本しか釣れないのです。そこで私は、合法的且つ画期的な鯉の釣り方はないかと、磯釣りの手法に少々手を加えて、三年間程それこそ、雨の日も風の日も早朝六時から九時頃まで、バカみたいに多摩川に通いつめました。気候、水温等、もろもろの条件で魚のたまり場は常に変わります。結果、三年目には三時間で、五十本程の鯉が釣れるようになりました。それをききつけて、スポーツニッポンが取材してくれたのが、この写真です。釣とレコードセールスは妙に合致点があります。つまり魚、(レコード業界ではエンドユーザー)がいない所にはいくら良い餌(作品)を与えても食いついてきません。例の「孫」では日本中に魚がいたと言うことでしょうか。マーケティングリサーチの重要性を痛感しております。それはさておき閑話休題。
私は人類が歌らしきものを唱い出したのは何時頃、どんなキッカケでだろう。と考えることがあります。死者を弔う時、或いは、若さを謳歌する時、又、戦いの最中、そんな時に歌らしきものが生まれたのではないでしょうか。二十年程前、深夜放送で、アフリカ某国の弔いの歌を聴きました。それは正に、猿の声でした。猿は「キャッキャッ」とも鳴きますが、愛や哀しみを表現する時は「ホッホッホッ」と鳴きます。その弔いの歌は微分音を含んだ、すばらしく心にしみる歌でした。「ホ、ホ、ホッホッホ」という感じで、(文章で表現出来ないのが残念ですが)こんな所にも歌の原点の一つがあるのかな、と考えております。
今後の私には一つの夢があります。私含めた二本のギターとウッドベースのみで、かなりマニアックな演奏を、CD化したいのです。古希ライブも考えていたのですが、もろもろの事情で出来ませんでした。大のノンベエ、そしてブルース大好き人間なので、CDタイトルは「アルチューハイマーブルース」です。(実はタイトルしかできていないのですが。)
最近の若い人のライブを、暇をみつけては聴きにいっています。そこで感じたこと。打ち込みの音源で歌だけ唄う人が、かなりいることです。これは、もはやライブではない、と思うのですが、諸兄のお考えは如何でしょうか?世の中は嫌でも、すべてデジタル化していく様です。私はデジタルの機器、ノウハウを使いながらも、如何にアナログチックなしレコーディングが出来るかを、今後の課題の一つとしたい、と思っております。
◎原田良一(はらだりょういち) Profile
東京都出身 慶應義塾大学経済学部在学中より、馬渡誠一ブルーリズム、八木正生オクテット等でジャズギタリストとして活動。その後、スウィングウエスト、ザ・スペースメン等のリーダーを務める。昭和40年頃より、作編曲に従事。昭和44年より民音コンサートにて水原弘、フランク永井、橋幸夫、堺正章、井上順、西郷輝彦等の音楽監督を務める。昭和54年より、(株)日音の契約プロデューサーとして、吉幾三、三田村邦彦、伊藤雄之助等を手掛ける。昭和57年、(株)芸音でレコード制作部長として、ペドロ&カプリシャス、東京ロマンチカ、川中美幸等を手掛ける。昭和60年、(株)ベルミュージック副社長を経て平成元年より原田音楽事務所を主宰。日本クラウン(株)企画制作事業部契約プロデューサー
<主な作品>
作曲/哀愁(水原弘) 一人ぼっちでだいじょうぶ(雪村いづみ)他
編曲/昭和45「圭子の夢は夜ひらく」の編曲で、第1回日本歌謡大賞受賞。他に、TV主題歌として「おやこ刑事」、「江戸の激闘」等、TV、ラジオの主題歌、BGM等多数
原田音楽事務所 Project1 Project2
今後、日本全国に、あまねく配備されるであろう光ファイバー時代に適合した、スタジオ作りを考えています。候補地のビルには、ライブハウスが2ヶ所入っています。光ファイバーは、すでに配備済みです。リアルタイムで光ファイバーによる、ライブ配信が可能です。
求むスポンサー!! という感じです。