NO.21
川崎真弘
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みなさん初めまして、そして既に旧知の仲の方には、御無沙汰しております。川崎真弘と言う名前は、作曲活動が主になってから呼ばれる事が多く、それ以前のいわゆるバンドマン時代には皆から"LUCKY"と呼ばれておりました。
実は小学校の頃からのアダ名で、中学、高校と進むにつれ、先生達までもがそう呼ぶ様になった為、「カワサキ!」と呼ばれるのは職員室に呼ばれる時くらいのものでした。
従って、今でもそう呼ばれると時々ドキッとする瞬間が、いや習慣が残っております。私を呼ぶ時には、くれぐれも気を付けてお願いします。

普段は主に映画やTVドラマの音楽を書いておりますが、正直に白状すると、私バイエルも弾いた事が無いのです。 スタジオでは百戦錬磨、御幼少の頃より鍛え上げたミュージシャンの方々に指示なんぞ出して、アヤフヤな棒なんぞ振り回しておりますが、今ここで皆さんに懺悔しつつも、今後も宜しくね!なんて、開き直っておきます。

子供の頃は姉の持っていた映画音楽のサントラやアメリカン・ポップスのレコードなどを聴きまくっておりましたが、他の私の世代のご多聞に洩れず 、The Beatlsに出会ってからは、小学生の頃からやっていたクラッシック・ギターをエレキ・ギターに持ち替え、中学生頃からバンドに明け暮れて、当時の世のオトナ達から後ろ指を指される、立派な不良に成長しました。
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でも私を知っている方は、「確かキーボード・プレイヤーだったはず・・・」と思っているでしょう。 その通りなんです。 ハモンドなんぞを弾き倒しておりました。 B-3の上に掛け登ったりなんて事も・・・若気の至りとでも言っておきましょう。
私と同じ年代の方々は思い起こして下さい。 60年代後半一世を風靡していたグループ・サウンズが衰退しはじめた事を。 ビートルズやローリング・ストーンズによってもたらされたあの空前の大ブームも、それ故に沢山の粗悪品も同時に生み出してしまった事を。 そんな時代のドサクサにまぎれてチャッカリプロ・デビューをしたのは私です。
プロコルハルムの「青い影」やアニマルズの「朝日のあたる家」などがオルガンで弾ければステージに立てた時代もあったのです。 今思えば恐ろしい時代です。
ピアノは習った事がありませんでしたが、子供の頃から学校の音楽室に忍び込み、勝手に遊んでいたのが効を奏して(?)、ずうずうしくもステージに上がってしまった。
それ以前のボーヤ(今ではもっと耳に心地よい呼び方もあるが)時代とは雲泥の差があるのです。 人間に一歩近付けたのです。 こんなチャンスは逃せんど! 九州男児はハッタリで勝負じゃ! と言う訳でもないが、似た様なモンか・・・。

あとは練習も勉強もドロ縄方式の一点張り。 と言うか、当時ディスコやジャズ喫茶、サパークラブなど入れると一年中昼から朝迄休み無くステージをやっていたので、通信教育の理論講座などカジッて見たり、ちゃんと教育を受けた友人が出来ると質問責めにしたりで、明日のステージの為に今日何とかする、なんてムチャな事をやっておりました。

映画やドラマの音楽は、小室等バンドをやっていた頃、小室氏のスタジオ・ワークでプレーヤーとして幾つもの作品と出会いました。 氏の台本への解釈やアプローチはとても新鮮で、こんな型ちの音楽表現もあるんだ、とバンド活動に限界を感じ始めていた私の目からウロコがメリメリと剥がれて行く思いだった。
そんな折に、旧知の宇崎竜童氏からNHKの3週連続ドラマで主題歌を書くから、中の音楽をやって見ないか、と声を掛けられ「やる、やる、やる!」と即答で引き受けたのが実際の出発点でした。 最初の録音メンバーには、バンド仲間何人かで小規模な編成でしたがツアーの合間に書いていた為、3週間殆ど徹夜状態だったのが、懐かしく感じる今日この頃。 最近はライブ活動はしていないので、貫徹夜をする事は少なくなったが、そんな体力も同じく無くなって来ているので、丁度いいか?

それはそうと・・・何かエッセイをと言われていたのに、これって全部自己紹介になってないか? こんな私が作編曲家協会に入ってて良いのかな?
と、言いつつも、以前ハリウッドの殆どの映画音楽作家を抱えているエージェントと話をした時、誰もが知っている大作曲家の中にも、譜面やアレンジに弱く、口笛を吹いたのを録音して、あとは全部オーケストレイターがやっている人がいるなんて裏話しを聞いて、バイエル弾いた事が無くたって、俺は自分でスコアー書いてるぞ! 作曲家してて誰か文句あっか! と又また開き直って、私の話もお開きにさせて頂きます。  Fine


◎川崎真弘(かわさきまさひろ) Profile
日本ロック界で'70年代の伝説と謂われた「イエロー」「カルメン・マキ&OZ」「金子マリ&バックスバニー」等のグループや数々のセッションで、ハモンドB-3を得意とするキーボード奏者として活動。1984年には、以前より親交の深かった宇崎竜童氏の呼び掛けで「竜童組」の結成に参加し、6年間にわたる日本各地のみならず、数々の海外公演において西洋音楽と日本伝統音楽が交差する新しい日本ロック・ミュージックを提唱する。1990年「竜童組」の活動停止とともに、以前から関っていた映画音楽の作曲家としての活動に拠点を移し、多くの作品に音楽を提供し、その哀感あふれる独特の音楽性は日本のみならず海外からも高い評価を得ている。1995年松竹映画『RAMPO』で、また2000年には角川映画『金融腐蝕列島 呪縛』に於いて日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。この秋からはNHK朝の連続小説「まんてん」の音楽を担当。
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