NO.37
梅垣達志
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初めまして。
私、梅垣達志と申しまして、作曲、編曲、ボーカル、ギターを主な仕事としています。

JCAA事務局の女性から「今月の作家コーナー」に梅垣さんを紹介したいので宜しければ原稿をお願いしま〜す、とまるで風が頬をなでるかの様にさらっと依頼されたので、ついうっかり「は〜い」と承諾してしまったものの、作家といっても専門はオタマジャクシで言葉ではないわい〜こりゃ大変!と焦ったのも後の祭りでした。

こういう事情を予備知識として頭にいれて頂いた上で、暫く拙い文章とお付き合いをお願いします。

「後の祭り」と書きましたが先日、京都の「祇園祭り」へ行ってきました。私、何を隠そう(隠しておりませんが)生まれは京都です。大学を卒業した春に東京へ移り住むまでは、京都東山の清水寺から高台寺、八坂神社を結ぶ観光ルート上にある「二年坂」と称する石の階段のたもとにあった実家で家族と共に生活していたので、幼い頃から祇園祭りには慣れ親しんだものです。

余談になりますが、その実家の二階の私の部屋に、美人画で有名なあの竹久夢二画伯が愛人と数年間、借家住まいをしていたという事で、当時、新聞や雑誌の取材をよく受けた記憶があります。
私が大学を卒業するにあたって、両親が私と弟にその家で商売でもするのなら別だが、その気が無いなら〜と言ってさっさと人に売却して引っ越してしまいました。
買った人はなかなかの商売上手で、お土産屋さんに改築した後、店の前に「竹久夢二のなんとか〜」と銘打った石碑をお建てになって商売繁盛していらっしゃる御様子です。

最近その生まれ育ったところを訪れてみましたが、まかり間違えば、音楽家にならなくてその店先に座っていたかもしれないな〜その方が良かったかも〜どこで間違えたのかなあ〜、などと妙に感慨深げに佇んでいる自分に気づき、ハッと我に還るや、いやいや僕は音楽を志して本当に良かった、後悔なんかしていない、とまるで後悔しているような可笑しな気分でした。
その祇園祭り当日の7月17日に京都テルサホールでフォークソングコンサートが催され、その出演の為に京都を訪れたのです。40年前、私はアマチュアフォーク少年として、このコンサートからフォーククルセイダーズの加藤和彦君や、北山修君、はしだのりひこ君たちと巣立っていった、いわば私の音楽の原点なのです。
当時の仲間たちが一同に介し、同窓会を兼ねて最後のコンサートをしようという事になり、プロとしての私も含め、数十グループの参加者とスタッフ全員が手弁当、無報酬で企画、立案したもので、当日は立ち見まででて大成功に終わりました。

久しぶりに会う仲間たちは、それぞれ歳を重ね、当時は黒々としていた髪も薄くなり、それなりの姿、体型に成りこそすれ、気持ちは思いっきり青春そのものでした。

お陰で祇園祭りを見る事は全く出来なかったのですが、その歴史の永さには遠く及びはしないものの、私の原点である音楽と仲間たちが、その歴史を脈々と育んできた事に、とても感動と感謝を覚えた、素晴らしいもう一つのお祭りでした。東京へ移ってからの私は、シンガーソングライターとして数枚のシングルレコードとアルバムをリリースしつつ、作家として作品を提供したり、編曲をしたり、映画やCM等の音楽を手がけたりして今に至ります。

ロック少年だったチャーに書いた「気絶するほど悩ましい」を始め、ピンクレディ、山口百恵、カーペンターズ、郷ひろみ、西城秀樹、南沙織さん達や多くの作詞家、制作スタッフの人たちとの素晴らしい出会いを思うと、音楽をやってきて本当に良かったとつくづく感じさせられる昨今です。

またこの20年近く、作曲、編曲、コーラス等でお付き合いをさせて頂いている白鳥英美子さんにお誘いを受け、3年前から彼女のコンサートでギターとコーラスを務めるようになりました。
この事がきっかけになり、白鳥英美子さんとその仲間の作詞家、音楽家の方たちと「アンビアンス」という名のポップコーラスグループを結成し、ライブコンサートも行っています。

フォークコンサートからスタートし、数十年の作家生活を経てあたかも原点に戻るかの様に、またコンサート活動をするに至った私は、今が新たなスタートの時として、ますます大好きなオタマジャクシにのめり込んでゆく事でしょう。

思えば、音楽という素晴らしいお祭りが、ずうっと私の中で、お囃子を絶やす事なく奏で続けているに違いありません。
きっとそう。生きる勇気と感動を。


作編曲、唄、ギター
梅垣達志
2005/7/23
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