NO.57-2
入野禮子

「誰も知らない高橋冽子、誰でも知っている高橋冽子」

後編
「名前のこと、憤慨しています。」

高橋冽子は職名です。高橋は旧姓ですが高は口ではなく梯子の方です。パソコンでは出て来ません。

 即ち入野礼子、高橋礼子でした。「れいこ」は戦後の漢字制限で「礼子」となってしまったのです。

 友人が「貴女の名前は強過ぎて喧嘩早いので名前を変えた方が良い」と言われ安易に礼子を冽子にして了ったので、ややこしくて困ることも多々あります。

 しかし名前を変えても相変わらず怒りっぽく、桐朋も高崎も怒って辞職して了いました。

 東京音大付属音楽教室は27年間ソルフェージュ主任として勤め、これは65歳で未だ仕事が出来る内にと勝手ながら退職させて頂きました。皆様に迷惑を掛けましたが私自身にとっては正解でした。45年ぶりで土曜日が自由に使える様になったからです。海外の会議や交流コンサートへ出掛けても成田から授業に直行しなくて済んだからです。

 青山学院大学で音楽理論を頼まれた時には戸籍名でない「高橋冽子」を使うことが許されず許可を得るのに大変な手続きが必要でした。

 その後又厄介なことがありました。戸籍は入野禮子です。ところは禮が又又大変なのです。小六さんの禮は示す辺で問題は無いのですが、私の「れい」はネ辺です。9歳から中国の漢学者の家に内弟子に入ったと言う祖父が付けてくれたものです。ところがパソコンで出て来ないのです!免許書や銀行等々戸籍名にして貰いましたがある銀行は未だに手書きです。一般には郵便物は示す辺ですし、私自身もパソコンでは出て来ないので仕方なく諦めました。

この怒りはどこへぶつければ良いのでしょうか!?

「最近の嬉しい出来事」


<その1>昨年(2009)10月に、20年前には探せなかった入野ウラジミル義郎(1921-1980)のウラジオストクの生家の存在が確認されました。それはソ連時代に通りの名前が変わったままになっていたため、無くなったと言われていたのでした。それが日露の研究者によって確認され、私は数名の演奏家を伴って生家を訪れ、生家前でミニコンサートをやりました。NHKウラジオ支局が取材して下さり番組を制作してBS2で放映されました。

大河ドラマ「太閤記」(入野義郎作曲)のテーマ音楽が流れて番組は始まりました。私は自分のこととしてはなくドラマを見ている様に感動して了いました。

<その2> 私は卒業後毎年仲間と作品発表会を開催していたのですが第1回の時の阪口新の演奏による「サクソフォンとピアノのための五楽章」が脚光を浴びたことです。それは私が副科で取っていたアルトサックスに由来します。私の師は阪口新先生でとても可愛がって頂きました。1962年に入野が1年間フランス政府の芸術家招聘でパリへ招待された年に、私は桐朋の夏休から12月まで休暇を頂きフランスへ渡りました。阪口先生から「パリの音楽院のマルセル・ミュールに会って来なさい」と言われたので彼のサックスのクラスを訪問し写真も撮りました。今年は故阪口先生の生誕100年で「日本サクソフォン協会」から特集をするので「思い出」を書いて欲しいと依頼を受けました。又先生の写真と音源があったら是非お願いしたいと言うことでした。50年以上も前のことですから3日も掛けて探してやっと見つけ出しました。Saxophonist No22に寄稿文と写真、それに添付されているCDには私の作品も入っているのです。

<その3> 最後に11月26日に入野義郎作曲「小管弦楽の為のシンフォニエッタ」(1953) のロシア初演が実現します。太平洋交響楽団 指揮ミハイル・アルカージエフ。

ウラジオストク日本総領事でホルン吹きの山田淳氏のご尽力で「日本の現代音楽作品」の企画が出来上がったとのことです。

亡夫はさぞ喜んでいることでしょう。私は代理でウラジオストクへ行って参ります。心は熱く、しかし外は冷たいウラジオへいざ行かん。

2010年10月 世田谷区松原にて



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写真2:ウラジオストクの入野義郎生家と鈴木商店(貿易商社)の前でのコンサート風景
(2009年10月13日)


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