NO.72
池 毅
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厚かましくも、こんな私が「作曲家」

「作曲家」という職業は資格審査も免許証も無く、人様にお示し出来るのは自前の名刺ぐらい。
つまり、どなたでも言った者、なった者勝ちです。厚かましくも、こんな私が「作曲家」を名乗っていられるのもこうした理由のお陰なんです。

以下、回顧録的な内容ですが、宜しければお付き合い下さい・・・。

趣味のギターが高じて美大生時代にフォークグループに参加。
その気になってアマチュアフォークコンテストに出場して入賞。私が作詞作曲した作品を前年度の優勝バンドのデビュー曲に提供して欲しいと頼まれ、その代わりに自分たちのオーディションをお願いしたところ、なんと我々もデビューが決定!さあ、我らのオリジナル曲で・・と思いきや、用意されたデビュー曲は詞も曲も大巨匠の書き下ろし。しかもゴールデン枠のTVドラマの挿入歌という、なんとも恵まれたデビューでした。自分たちのオリジナル曲にこだわっていたらどうなっていたか・・・。
16トラックレコーディングの時代。
1979年の春、のお話しになります。
デビュー曲は当時の表現で公称ウン万枚のスマッシュヒット!。そのお陰で2年半ほどプロとして音楽活動を続けることが出来ましたし、いわゆる「ザ・芸能界」のあれやこれやを間近で体験することも出来ました。

グループ解散後事務所に残り、音楽担当として所属タレントのレコーディングのサポートや、有名俳優さんの地方営業(ディナーショー)などにギター兼ハモリ兼コンダクターとして同行させていただきました。現場では地元の箱バンさん(時にフルバンド)に演奏して貰う事が多かったのですが、リハでテンポを出すのは東京からヒョコっとやって来てフォークギターを抱えゴソゴソと譜面を配るどこの誰だか解らない若造の私です。私が恐る恐る「いっきまーっす!!ワーン・ツー・・」とカウントを出すと怖そうなバンドの皆さん方は意外と素直に演奏してくれました。現場では曲のテンポを知っている者が一番なのダッ!と言うことを学んだ瞬間でした。しかし同じ譜面なのにノリと響きが全く違う現実にあ然としたり感心したり・・。

いよいよ作曲家として自立を目指すべく事務所を辞め、コンペの日々の中、ぽつぽつと採用される曲が増えていきました。CM音楽も書かせて頂くようになり、必然的にアレンジもまかせていただけるように・・いや、実際はアレンジまでやらないとギャラにならない現実がありましたから・・。勉強のためスタジオに落ちていたスコアをこっそり持ち帰ったりもしました。デモテープのグレードも劇的に進化して来たのがこの時期です。打ち込みという言葉が日常的に使われるようになりました。ギターをMIDIデータ入力用のキーボードに持ち替え、慣れない指使いに首と肩はパンパンに凝りまくりながら、それでも徐々に体が慣れていきました。

CMやキッズ番組等に曲を提供しながら暫く経った頃、「ドラゴンボール」というTVアニメのオープニング曲とエンディング曲のコンペの話が舞い込んで来たのです。歌詞先行でいただいた2編の原稿はさすがに難関を勝ち抜かれただけあって、サクサクと作曲することが出来ました。結果2曲とも採用されることに!!・・。聞けば作曲枠は30数曲のコンペだったらしいのですが、数百曲単位が当たり前という現在のコンペに比べれば、まだまだ平和な時代だったのかも知れません。
そして、夜も昼も仕事場に籠もり曲データを打ち込み続ける、嬉しくも過酷な日々が始まろうとしていました。


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