NO.812015.5.13
昨年6月、長谷部徹、寺嶋民哉、椎名邦仁各氏ととあるプロジェクトをしていた私は皆が「総会は出る?」という会話をしているのを耳にして[何の総会?]と思っていたのですが「タガシーはまだ入会してないんだっけ?」という言葉で、[おっと、あれだ!]と気付いたのです。そう、その時から遡ること一年半前に一度は入会しようかと申し込み用紙まで取り寄せておきながら、年会費が高いわりにメリット無いじゃん!と思ってそのままにしてあった、あの「JCAA」の総会だったのです!(心の呟き::某K先輩、ゴメンナサイ!一年半も放っておいたのです。だって、「メリットは何もありません。会費は寄付のつもりで払ってね」って仰ったじゃないですか、、、)
というわけで、3氏に未入会であることを伝えたら、常任理事をしている寺嶋氏に「事務局、17時まで人がいるはずだからそれまでに申し込みすれば明日入会出来る!」と言われ、FAXで書類を送ることになったのです。そして翌日、総会前の理事会で承認された、という寺嶋氏からの連絡をJASRACリブロで貰った私は更に「入会金も払っちゃいなよ、そうすれば正式に会員として総会に出席できるし」と促され9階に上がって、珍しく財布に有った「福沢諭吉」をすぐに支払い、ここに、申し込みから正式入会まで丸一日!という最短(かな?)記録を作ることとなった、田頭でございます。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、私はいわゆる音楽一家に生まれたのではなく、ごく普通のサラリーマンの長男として生まれました。ところが突然変異だったのか、わずか2歳の時に買い与えられたオモチャの木琴で遊んでいるうちに、当時テレビで頻繁に流れていた「バラが咲いた」を耳コピーで演奏したらしく、田舎の神童だったようなのです(笑)
その後、4才からピアノを弾き、小学生の時に地元の町の作曲コンクールで優勝し、中学生の時には県内の生徒作曲コンクールで二年連続で優勝し、、、そう!よく巷で言われる、典型的な「井の中の蛙、大海を知らず」的な勘違いをし、作曲家になろうと志すこととなったのです。その後、運良くあまり学費の高くない学校で作曲を勉強することが出来たのですが「十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人」なのでありました。全国から信じられないほどの才能を持った若者たちが集まっていたのですから、「勘違い坊や」はたまったもんじゃありません!すぐに落ちこぼれ軍団になり自主留年を決意して人より長い年月をかけて卒業することとなったのです。まぁ、幸いにも当時は修士などという逃げ場があったので、すぐに路頭に迷うこともなかったのですが、社会に出るタイミングは同じ年代の仲間たちに比べ随分遅くなってしまいました。
そんな中、私が業界での仕事として始めて手掛けたのは、当時かなり流行した「α波モノ」(^_^)のCD制作でした。先輩諸氏に混じり作家の一人として参加させていただき、いきなりほぼフルオケを書き指揮もするという無謀なことをして随分とスタジオプレーヤーの皆さんにご迷惑をかけた記憶があります。その後、家内に放送関係の仕事したいなぁと漏らしたら、某写譜業界の重鎮の方を通じて古くからのインペグ屋さんをご紹介頂き、その縁で某公共放送でのお仕事に結びつき、特にETV関連の番組を沢山やらせて頂きました。中でも「虹色定期便」という番組ではコアなファンの方々の後押しもあって、自主制作ではあったもののサントラを初めて作った思い出があります。ありがたい事にその時に知り合った多くの方々の繋がりでそれ以降もなんとか作曲家として生活してこられました。というわけで、今の私があるのは本を正せば家内のお陰なのであります。感謝感謝!
さて、いつも仕事をしている時「今まではなんとか曲作れたけど、今回は流石にダメかもしれない!曲ってどうやって作るんだっけ?」、、、っていう想いを、実はずっと前から誰にも話したことのない秘密の想いとして持っていたのですが、近年親しくさせてもらってる寺嶋氏が全く同じことをこのエッセイに書いてあることを発見し驚いてるんです。あのような活躍をしている方でもそんなこと思うんだ!だったら私がそういう気持ちになったとしてもなんら不思議じゃないな、と感じている今日この頃なのであります。きっとこれからも私は、凡才な作曲家として歩んでいくことでしょうが、周りに溢れている才能豊かな作曲家諸氏の後塵を拝しながら、お仲間として接して頂いている幸せを感じつつ頑張っていく所存であります。「タガシー!」という愛称でもう暫くお付き合いしていただけますようよろしくお願い申し上げます。
◎田頭勉(たがしらつとむ) Profile
1962年生まれ。青森県八戸市出身。東京芸術大学作曲科、卒業。同大学院修了。
作曲を松村禎三、浦田健次郎、故山田泉に師事。
日本交響楽振興財団作曲コンクール第11回・第20回入選。
幼少の頃から音楽的才能を現し、2歳で誰からも教わることなくオモチャの木琴を奏でるようになり、 3歳からピアノに親しみ、6歳で作曲を始めた。小中学生の頃は数多くの作曲コンテストで優勝。 その後、東京芸術大学、及び大学院へ進学。
修了後は、まだ一般的ではなかったオーケストラサウンドをコンピュータを駆使して打ち込みで 表現することに熱心に取り組んできたが、今やそのクオリティは同業者からも驚かれるほどである。
数種類のコントローラーを同時に操作しながらキーボードを弾いて出すサウンドは、あたかも生の楽器を演奏しているかのようである。
叙情的で印象的なメロディーの音楽、派手なアクションシーンの音楽、また、様々な時代や地域の音楽にも造詣が深く、エスニックな音楽等々、幅広い分野の音楽制作で活躍している。
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田頭 勉
昨年6月、長谷部徹、寺嶋民哉、椎名邦仁各氏ととあるプロジェクトをしていた私は皆が「総会は出る?」という会話をしているのを耳にして[何の総会?]と思っていたのですが「タガシーはまだ入会してないんだっけ?」という言葉で、[おっと、あれだ!]と気付いたのです。そう、その時から遡ること一年半前に一度は入会しようかと申し込み用紙まで取り寄せておきながら、年会費が高いわりにメリット無いじゃん!と思ってそのままにしてあった、あの「JCAA」の総会だったのです!(心の呟き::某K先輩、ゴメンナサイ!一年半も放っておいたのです。だって、「メリットは何もありません。会費は寄付のつもりで払ってね」って仰ったじゃないですか、、、)
というわけで、3氏に未入会であることを伝えたら、常任理事をしている寺嶋氏に「事務局、17時まで人がいるはずだからそれまでに申し込みすれば明日入会出来る!」と言われ、FAXで書類を送ることになったのです。そして翌日、総会前の理事会で承認された、という寺嶋氏からの連絡をJASRACリブロで貰った私は更に「入会金も払っちゃいなよ、そうすれば正式に会員として総会に出席できるし」と促され9階に上がって、珍しく財布に有った「福沢諭吉」をすぐに支払い、ここに、申し込みから正式入会まで丸一日!という最短(かな?)記録を作ることとなった、田頭でございます。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、私はいわゆる音楽一家に生まれたのではなく、ごく普通のサラリーマンの長男として生まれました。ところが突然変異だったのか、わずか2歳の時に買い与えられたオモチャの木琴で遊んでいるうちに、当時テレビで頻繁に流れていた「バラが咲いた」を耳コピーで演奏したらしく、田舎の神童だったようなのです(笑)
その後、4才からピアノを弾き、小学生の時に地元の町の作曲コンクールで優勝し、中学生の時には県内の生徒作曲コンクールで二年連続で優勝し、、、そう!よく巷で言われる、典型的な「井の中の蛙、大海を知らず」的な勘違いをし、作曲家になろうと志すこととなったのです。その後、運良くあまり学費の高くない学校で作曲を勉強することが出来たのですが「十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人」なのでありました。全国から信じられないほどの才能を持った若者たちが集まっていたのですから、「勘違い坊や」はたまったもんじゃありません!すぐに落ちこぼれ軍団になり自主留年を決意して人より長い年月をかけて卒業することとなったのです。まぁ、幸いにも当時は修士などという逃げ場があったので、すぐに路頭に迷うこともなかったのですが、社会に出るタイミングは同じ年代の仲間たちに比べ随分遅くなってしまいました。
そんな中、私が業界での仕事として始めて手掛けたのは、当時かなり流行した「α波モノ」(^_^)のCD制作でした。先輩諸氏に混じり作家の一人として参加させていただき、いきなりほぼフルオケを書き指揮もするという無謀なことをして随分とスタジオプレーヤーの皆さんにご迷惑をかけた記憶があります。その後、家内に放送関係の仕事したいなぁと漏らしたら、某写譜業界の重鎮の方を通じて古くからのインペグ屋さんをご紹介頂き、その縁で某公共放送でのお仕事に結びつき、特にETV関連の番組を沢山やらせて頂きました。中でも「虹色定期便」という番組ではコアなファンの方々の後押しもあって、自主制作ではあったもののサントラを初めて作った思い出があります。ありがたい事にその時に知り合った多くの方々の繋がりでそれ以降もなんとか作曲家として生活してこられました。というわけで、今の私があるのは本を正せば家内のお陰なのであります。感謝感謝!
さて、いつも仕事をしている時「今まではなんとか曲作れたけど、今回は流石にダメかもしれない!曲ってどうやって作るんだっけ?」、、、っていう想いを、実はずっと前から誰にも話したことのない秘密の想いとして持っていたのですが、近年親しくさせてもらってる寺嶋氏が全く同じことをこのエッセイに書いてあることを発見し驚いてるんです。あのような活躍をしている方でもそんなこと思うんだ!だったら私がそういう気持ちになったとしてもなんら不思議じゃないな、と感じている今日この頃なのであります。きっとこれからも私は、凡才な作曲家として歩んでいくことでしょうが、周りに溢れている才能豊かな作曲家諸氏の後塵を拝しながら、お仲間として接して頂いている幸せを感じつつ頑張っていく所存であります。「タガシー!」という愛称でもう暫くお付き合いしていただけますようよろしくお願い申し上げます。
◎田頭勉(たがしらつとむ) Profile
1962年生まれ。青森県八戸市出身。東京芸術大学作曲科、卒業。同大学院修了。
作曲を松村禎三、浦田健次郎、故山田泉に師事。
日本交響楽振興財団作曲コンクール第11回・第20回入選。
幼少の頃から音楽的才能を現し、2歳で誰からも教わることなくオモチャの木琴を奏でるようになり、 3歳からピアノに親しみ、6歳で作曲を始めた。小中学生の頃は数多くの作曲コンテストで優勝。 その後、東京芸術大学、及び大学院へ進学。
修了後は、まだ一般的ではなかったオーケストラサウンドをコンピュータを駆使して打ち込みで 表現することに熱心に取り組んできたが、今やそのクオリティは同業者からも驚かれるほどである。
数種類のコントローラーを同時に操作しながらキーボードを弾いて出すサウンドは、あたかも生の楽器を演奏しているかのようである。
叙情的で印象的なメロディーの音楽、派手なアクションシーンの音楽、また、様々な時代や地域の音楽にも造詣が深く、エスニックな音楽等々、幅広い分野の音楽制作で活躍している。
※掲載は所属当時