NO.892016.9.21
はじめまして。名古屋生まれのカジノユキと申します。昨年2015年2月に入会の新人ホヤホヤです。この度「新人さんの紹介」と題してお声がけ頂き、本号を担当させて頂きます。貴重な機会に感謝です。
私の現在は、主に福祉やファミリー向け、小中高校生向けの芸術鑑賞コンサートのためのオーケストラ編曲をさせて頂いています。これに至るには個人的ドラマがあります。
私は元々エレクトーン娘でした。大学もエレクトーンで進学。卒業後はプレイヤーになるんだ!とデモンストレーター奏者として就職先も決まっていました。しかし!運命のいたずらか。晴天の霹靂!私の知らない「新しい世界」を知るのです。それは、ボブ佐久間先生と名フィルと私の大学でジョイントする「夏の夜の夢」というミュージカルの音楽でした。オーケストラに3リズムが入り、オーケストラという多人数。普段の私はエレクトーン=機械音しか知らなかったので(例:Violinだったら、音色ボタンから出てくる音)、「人間が演奏している!しかもそれぞれパート譜(楽譜)があって、打楽器も人間が演奏してる!」と、人間から放つ音。それはそれは生きる豪華なサウンドで衝撃的でした。 そしてコード。ジャズというオシャレなコードが在るということもボブ佐久間先生の音楽で初めてココで知ったのです。「私の知らない世界を神様は観せてくれたんだ」と勝手に思い、これを機に私の人生第2章が始まります。
スコアは読めてたのですが、実際どう勉強したら良いかわからなかったので、古い映画音楽曲の耳コピーから始めました。ジャズのコードを勉強していくと今度は、本当のジャズを知りたくなり、当時はアマチュアさんのビッグバンドにピアノ(ピアノ自体やったこともないのに笑)で入団。グッドマンやベイシーやネスティコ、デュークやクインシーなどのサウンドに触れます。古い曲だとスコアは無いので、お気に入りの曲はそのパート譜を掻き集めて自分でスコアを作ってホーンセクションがどうゆう音の積み方なのかを勉強しました。
と同時期に、インターネットで募集を知った某大手写譜会社に「写譜屋」として入社できました。自分の夢は内緒にして語らずでしたが、そこでたくさんの巨匠さま諸先生方の生のスコアを拝見。書き立てホヤホヤのパート譜を胸に抱えテレビ局やスタジオ、オーケストラのところへ立ち合いました。スコアを観ながら生音が聴ける、そして陰で支える人たちが居ると知ることができたこの経験は、私にとって人生大きな実り多き財産となりました。
充実感溢れる毎日でしたが残念な出来事が。私の眼が悪くなってしまいドクターストップがかかるのです。行く先の宛も無く意を決して退職をするのですが、運命のいたずらか。青天の霹靂!挨拶回りで「眼が悪いなら耳を活かしませんか?」という有り難いお声がかかり、出版譜のJ-POPピアノ編曲者という小さいながらも「アレンジャー」として出発するのです。ビッグバンドもやっていたので、ジャズ系雑誌の執筆や採譜もさせて頂きました。販売されている楽譜に「カジノユキ」と生まれて初めて載った時は本当に嬉しかった。
その後、音源制作の商業施設用音楽コンペも力試しで参加しました。独りになった以上、とにかく何でも挑戦しました。
留学など学習的経歴も実績も無くスタートした私ですが、年数経って少しの箔が付いてきた頃。神様は観てるのでしょうか?運命のいたずらか。晴天の霹靂!「カジノさん、オーケストラの編曲をしてみませんか?いつもやって下さる方が今回お忙しいので」とお声がかかり「ハイ!」と2つ返事の私です。脳裏に映ったのは、「誰かが出来ないときに自分が出来る。それがチャンスだ!」という、私が当時写譜屋の頃に聞いた渡辺俊幸先生と小野寺忠和先生の言葉です。きっとコレだ、今その時だ!と思いました。
そしていよいよ人生初のリハーサルです。今までは写譜屋としての登板現場でしたが、今日は立場違って「編曲者」です。それはそれは前の晩は一睡もできず眠れませんでした笑。
さらに、「編曲者というのはそうか。指揮者のお方とお話しすることになるんだ」と今までに知り得無かったリアルな実感です。
駆け足でお話させて頂きましたが、そんなこんなで、皆さまのおかげさまで今の私が在ります。巨匠の先生方の高貴なサウンドを胸に刻み、私なりに小さな子どもたち・後世に「人間の生きた音楽」を残せるように願晴りたいです。みなさんに育てて頂いている私カジノユキです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。(写真はうなぎを喰らうところです笑)
◎カジノユキ Profile
カジノユキ(本名:梶野由紀)名古屋生まれ
名古屋芸術大学音楽学部卒業後、上京。写譜の会社に勤め、プロのレコーディング現場やテレビ局、プロオーケストラとの関わりを持ち学んでゆく。2008年に身体上の理由(眼科系)により退社。耳を活かして市販の出版譜の編曲やJazz系雑誌の採譜・執筆を開始し「アレンジャー」として出発する。その後、大手デパート「銀座松屋のテーマソング」「六本木ミッドタウン・夜桜ライトアップショー」「千葉県船橋競馬場ファンファーレ」など商業施設の音楽を担当。2010年より名古屋フィルハーモニー交響楽団への楽曲提供を転機に愛知県岡崎市・豊田市・みよし市の各々市歌の委嘱編曲も努める。また、玉川大学・玉川学園とベルリンフィルメンバー来園の交流レッスン模様の取材依頼を受け、教育に携わる音楽ライターとしても活躍。JazzBigBandでジャカルタでの私曲演奏の経験を持ち、現地の新聞にも取り上げられた。ジャンル問わず多方面に渡り進出を目論むオモシロイ人物である。
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カジノユキ
はじめまして。名古屋生まれのカジノユキと申します。昨年2015年2月に入会の新人ホヤホヤです。この度「新人さんの紹介」と題してお声がけ頂き、本号を担当させて頂きます。貴重な機会に感謝です。
私の現在は、主に福祉やファミリー向け、小中高校生向けの芸術鑑賞コンサートのためのオーケストラ編曲をさせて頂いています。これに至るには個人的ドラマがあります。
私は元々エレクトーン娘でした。大学もエレクトーンで進学。卒業後はプレイヤーになるんだ!とデモンストレーター奏者として就職先も決まっていました。しかし!運命のいたずらか。晴天の霹靂!私の知らない「新しい世界」を知るのです。それは、ボブ佐久間先生と名フィルと私の大学でジョイントする「夏の夜の夢」というミュージカルの音楽でした。オーケストラに3リズムが入り、オーケストラという多人数。普段の私はエレクトーン=機械音しか知らなかったので(例:Violinだったら、音色ボタンから出てくる音)、「人間が演奏している!しかもそれぞれパート譜(楽譜)があって、打楽器も人間が演奏してる!」と、人間から放つ音。それはそれは生きる豪華なサウンドで衝撃的でした。 そしてコード。ジャズというオシャレなコードが在るということもボブ佐久間先生の音楽で初めてココで知ったのです。「私の知らない世界を神様は観せてくれたんだ」と勝手に思い、これを機に私の人生第2章が始まります。
スコアは読めてたのですが、実際どう勉強したら良いかわからなかったので、古い映画音楽曲の耳コピーから始めました。ジャズのコードを勉強していくと今度は、本当のジャズを知りたくなり、当時はアマチュアさんのビッグバンドにピアノ(ピアノ自体やったこともないのに笑)で入団。グッドマンやベイシーやネスティコ、デュークやクインシーなどのサウンドに触れます。古い曲だとスコアは無いので、お気に入りの曲はそのパート譜を掻き集めて自分でスコアを作ってホーンセクションがどうゆう音の積み方なのかを勉強しました。
と同時期に、インターネットで募集を知った某大手写譜会社に「写譜屋」として入社できました。自分の夢は内緒にして語らずでしたが、そこでたくさんの巨匠さま諸先生方の生のスコアを拝見。書き立てホヤホヤのパート譜を胸に抱えテレビ局やスタジオ、オーケストラのところへ立ち合いました。スコアを観ながら生音が聴ける、そして陰で支える人たちが居ると知ることができたこの経験は、私にとって人生大きな実り多き財産となりました。
充実感溢れる毎日でしたが残念な出来事が。私の眼が悪くなってしまいドクターストップがかかるのです。行く先の宛も無く意を決して退職をするのですが、運命のいたずらか。青天の霹靂!挨拶回りで「眼が悪いなら耳を活かしませんか?」という有り難いお声がかかり、出版譜のJ-POPピアノ編曲者という小さいながらも「アレンジャー」として出発するのです。ビッグバンドもやっていたので、ジャズ系雑誌の執筆や採譜もさせて頂きました。販売されている楽譜に「カジノユキ」と生まれて初めて載った時は本当に嬉しかった。
その後、音源制作の商業施設用音楽コンペも力試しで参加しました。独りになった以上、とにかく何でも挑戦しました。
留学など学習的経歴も実績も無くスタートした私ですが、年数経って少しの箔が付いてきた頃。神様は観てるのでしょうか?運命のいたずらか。晴天の霹靂!「カジノさん、オーケストラの編曲をしてみませんか?いつもやって下さる方が今回お忙しいので」とお声がかかり「ハイ!」と2つ返事の私です。脳裏に映ったのは、「誰かが出来ないときに自分が出来る。それがチャンスだ!」という、私が当時写譜屋の頃に聞いた渡辺俊幸先生と小野寺忠和先生の言葉です。きっとコレだ、今その時だ!と思いました。
そしていよいよ人生初のリハーサルです。今までは写譜屋としての登板現場でしたが、今日は立場違って「編曲者」です。それはそれは前の晩は一睡もできず眠れませんでした笑。
さらに、「編曲者というのはそうか。指揮者のお方とお話しすることになるんだ」と今までに知り得無かったリアルな実感です。
駆け足でお話させて頂きましたが、そんなこんなで、皆さまのおかげさまで今の私が在ります。巨匠の先生方の高貴なサウンドを胸に刻み、私なりに小さな子どもたち・後世に「人間の生きた音楽」を残せるように願晴りたいです。みなさんに育てて頂いている私カジノユキです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。(写真はうなぎを喰らうところです笑)
◎カジノユキ Profile
カジノユキ(本名:梶野由紀)名古屋生まれ
名古屋芸術大学音楽学部卒業後、上京。写譜の会社に勤め、プロのレコーディング現場やテレビ局、プロオーケストラとの関わりを持ち学んでゆく。2008年に身体上の理由(眼科系)により退社。耳を活かして市販の出版譜の編曲やJazz系雑誌の採譜・執筆を開始し「アレンジャー」として出発する。その後、大手デパート「銀座松屋のテーマソング」「六本木ミッドタウン・夜桜ライトアップショー」「千葉県船橋競馬場ファンファーレ」など商業施設の音楽を担当。2010年より名古屋フィルハーモニー交響楽団への楽曲提供を転機に愛知県岡崎市・豊田市・みよし市の各々市歌の委嘱編曲も努める。また、玉川大学・玉川学園とベルリンフィルメンバー来園の交流レッスン模様の取材依頼を受け、教育に携わる音楽ライターとしても活躍。JazzBigBandでジャカルタでの私曲演奏の経験を持ち、現地の新聞にも取り上げられた。ジャンル問わず多方面に渡り進出を目論むオモシロイ人物である。