NO.119 2022.7.21

設楽泰史

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  鶉(うづら)と言う鳥がいる。戦国時代にはこの鶉は戦の前に戦意を高揚させるために鳴き声を聴いて敵陣に押し掛けたと言われる。それもそのはず、よく聞くと「ゴキッチョー」則ち「御吉兆」であり、勝利へ導く縁起がいい鳥として珍重された。

  さて、私は母親から幼少時代に日本の歌謡曲を散々聴かされ初めて買ってもらったドーナツ盤が都はるみの「涙の連絡船」で、盤面が擦り切れるまで聞いた。当時母親は自動車運転免許を取得するため時折私を母の実家へ預けた。その実家には叔父がいた。叔父はカナダから帰国したばかりでそこには Beatles、Ventures など洋楽のレコード盤が沢山あった。特に Ventures が好きで Walk don't run 64、Caravan、Slaughter on tenth avenue などをよく聴いた。同時期に YAMAHA のオルガン教室へ通う事になる。小学校へ上がる時にピアノに転向したいと母親に伝えたところ「ピアノは女の子が習うものだからダメ」の一言で断念せざるを得なかった。テレビでは音楽番組全盛でほぼ全ての番組を見た。しかしながら視点、聴点はメインキャストや歌手ではなくバックバンドだった。マヒナスターズの(日高利昭氏)を始めゲイスターズは(古本敬三氏)、東京ユニオンの(数原晋氏)他にもあるがとりわけ学校では同級生と全く話しが合わなかった。中学に入学と同時にクラシックギターに関心を持つようになったが友人達と一緒にバンド活動も始めた。高校時代はポピュラーソングコンテスト、Eastwest などコンテスト荒らしならぬ全国のあらゆるバンドコンテストに出場した。この頃から編曲に関心が高まり大学時代は邦楽では森岡賢一郎氏を始め宮川泰氏等の楽曲の探求をした。洋楽ではジャズの作曲家、ポピュラー音楽の作曲家などからコードケイデンス、リハモニゼーションを学んだ。卒業と同時に米国は Boston の Berklee College of Music で更に奥深い Big Band のハーモニー、アレンジを学ぶべく Jazz Composition and Arranging を専攻した。渡米時代は沢山の経験、交流、学びがあった。Boston はこの時初めて行った。右も左もわからない地理だったため最初の一年は寮生活を送った。部屋は6畳程の広さで偶然にも私の Room mate は日本人だった。ご丁寧に今でも覚えているが「I came from Japan, My name is Jiro Yoshida」と書いたメモが机の上に置いてあった。吉田次郎君だった。1982年前後に同校にいた朋友は数多い。道下和彦、音川英二、納浩一、定村史朗、山口英次、Andre Bostrom、Cyrus Chestnut、Eric Miyashiro、Laszlo Gardony、etc.数え上げたらきりがない。おっと、忘れてはいけない方がいた。知人から Big Band のギターの依頼を受けた。そこに同席していたのは何を隠そう我が JCAA 理事の外山和彦氏だ。当時はトロンボーン担当だった。今私がこの会に所属する導線を敷いてくれたのは外山氏のおかげである。

  昭和28年頃父は山形県から兄、弟と一緒に愛知県は豊橋に来た。生来兄は映画監督になりたく京都の大映撮影所へ行くつもりで家にあったなけなしの銭を持ったものの京都まで行く銭がなく仕方なく豊橋で下車したという。そこで弟(父)ともう一人の弟を養うべく見ず知らずの豊橋の地で何かしなくては生活が出来ないとの想いで鶉の完全飼育を日本で初めて事業として大成させた。冒頭に述べさせて頂いた「鶉」との関わりはそんな叔父、父が残した「有形の財産」であり、私が何かの形で伝承したいと考え「うづら Music Lab.」とした。

  10年ほど前から昭和の歌謡曲、流行歌を Jazz や Bosa でアレンジするような取り組みをしている。この作業はまだまだ今後も継続していく。最後になるが60歳を境によく思う事が二つある。一つは50年後の日本の音楽シーン、経済、生活様式がどんな変化を遂げているのかを空から見てみたい。二つ目は自身を支え、助けてくれた音楽を「無形の財産」としてこれから先の世代に継承していきたい、、


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