NO.50-2
奥 慶一
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連載 NO.2
私の履歴書(笑)(高校~大学学卒業まで)

 1971年の冬に東京藝術大学音楽学部附属高等学校作曲専攻を受験しました。
それまで私が音楽の道に進むことや東京の学校に行くことに反対していた父が同行してくれました。試験は実技、学科と数日にわたって行われましたが、私が試験問題に取り組んでいる間、父は明治神宮に参拝をして合格祈願をしてくれていたそうです。その願いが届いたのか、実技、学科共に合格したのです。面接の時に教頭先生に「滋賀県というのは日本で一番音楽のレベルが低い県なのだが、本当にやる気があるのか?」というような意味の質問をされたのを覚えています。
 田舎に帰ると、それまで「絶対に受かるはずがない」と言っていた周りの先生達が、いざ合格してみると「もったいないからこのチャンスを逃してはいけない」と言い始めました。私はこの頃までまだ自分が本当は何になりたいのか、どういう職業に就きたいのかは定まっていませんでした。中学卒業までは理数系が好きで、機械設計や建築もやりたいと思っていました。しかし、この一学年40人という小規模な音楽高校へ入ることによって、完全に理工系への道はなくなってしまいました。
 この音楽高校では理数系の授業が少なく、学科は芸大の入試の為に特化されたとも言えるような状態でした。私は語学や歴史など暗記物はあまり好きではなく、専門の作曲の課題をこなすのに相当時間を取られましたので、だんだん学科勉強をおろそかにするようになってしまいました。家に帰って学科の教科書を開けたことはほとんどなく、英語も予習などして行かなかったので、いつも訳の番が回ってくるとしどろもどろでお茶を濁しているような有様でした。しかし NHK ラジオのフランス語講座で独学するなど、自分の興味のあることだけはやっていたようです。
 そんなことをしていましたから、入学直後の実力テストでは上位だったのが卒業時には下から数えた方が早いくらいに落ちてしまいました。我ながらよく現役で合格できたものだと思います。私達の翌年から国立大学では共通一次試験が導入されましたので、この年に落ちていたら芸大に入学することはできなかっただろうと思います。
 作曲の実技は松本民之助先生に高校から大学学部卒業までの七年間みっちりと鍛えていただきました。滋賀で習っていた野田先生は滋賀大の教育学部を卒業されているのですが、聴講生として芸大に通っておられたことがあり、その時に松本先生が指導をされていたのです。その縁あって松本先生の方から「私が見ます」と仰っていただき、お世話になることになったのでした。
 大学では進級作品として一年次はソロ楽器とピアノの楽曲、二年次は弦楽四重奏曲、三年次は管弦楽曲、卒業作品は自由なスタイルで作品を提出することが義務づけられていました。一年ではメシアンの影響がかなり濃い「クラリネットとピアノの為のソナタ」を、二年では自己流解釈の音価、音程両方のセリエ・モード手法を使った「Octunity」と言う名の弦楽四重奏曲を、三年では偶然性と奏者の任意性を取り入れた「Triad」という管弦楽曲を提出しました。Triad は学生オケで演奏されましたが、現実に出た音と自分の頭の中で鳴っていた音との乖離にショックを受けました。
 卒業作品として制作した「Illumination pour orchestre」は、電子音楽の概念を取り入れた管弦楽曲で、二群に分けて配置された楽器群が、それぞれ黄金分割された時間のユニットが左右逆行で進行するというものでした。残念ながらこの曲は演奏の機会がないままになっていますが、スコアを大学に買い上げていただくことになりました。図書館に納めるために万年筆を使って手書きで清書をしました。60段の五線紙は売っていませんでしたから、48段のもの二枚を縦に貼り合わせて使いました。

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※掲載は所属当時

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