NO.50-4
奥 慶一

最終回
私の履歴書(笑)(デジタル機器はプロフェッショナルを駆逐するのか?)

 このシリーズのまとめとして、音楽創作行為についての現在の私の考え方を述べさせていただき終わりにしたいと思います。

 Pro Tools を始めとするコンピューター・ベースの音楽制作環境が今日では当たり前のようになりましたが、単に録音方式が変わったというだけでなく、音楽の作り方そのものが根底から変わったと言えます。
 学生時代に計算機と乱数表を傍らに苦労して作った「音で埋められた総譜を抽象的な時間の流れとして再構築、コラージュ」する作業などはコンピューターを使えばはるかに簡単にできてしまうでしょう。また今日では、リミックスが普及し、以前に誰かが演奏したフレーズを再構成したり、バックグラウンドに使用したりすることが当たり前に行われています。どこまでが創作でどこからが引用あるいはコピーなのかがわかりにくくなってきています。
 私は趣味で画を描いたりデザインをしたりしますが、フォトショップというソフトのおかげで、パソコン上で何度も試行錯誤、シミュレーションを繰り返すことができるようになり、油絵の具なら乾くまで待っている間に興味を失い結局中途半端なまま終わる、などということが少なくなりました。
 同様のことは音楽制作の上でも言えると思います。キーボードが弾けない人でも、時間を掛けてデータを打ち込み、何度も手直しすれば聴くに堪える作品を仕上げることができます。
 従来の作曲家を含むクリエイティブな仕事を職業として成り立たせていくために、制限された時間内で一定水準以上のものをコンスタントに提供し続けることは必要条件とされてきましたが、ネットワークが発達した今日では、はるかに多くの作品を集めることが容易になりました。未完成の素材に対し他の人が加工を行って完成品とすることもできるのです。こうなると、一人ひとりの作家の個性というものが必要なくなってしまいます。いつも要求を満たしているものを選べばよいのですから。
 しかし、私はそのようなやり方を続ければ文化は崩壊すると思っています。
 私はかつてジョン・ケージ氏の「4分33秒」によって音楽には幕が引かれたと思っていました。世の中に新しいものなどもう作れないのだと。しかし、今現在はそう思っていません。
 音楽は建築と同じように人間が生きていく上で必要なものであるべきなのです。そして人間の生活をより豊かにするものでなくてはなりません。前衛音楽・芸術はアイディア競争に陥ってしまい、ディテールの美というものを捨て去ってしまいました。私は美は細部に宿るものであり、全体は細部によって構成されるものであると信じています。
 同じ「ドミソ」の和音も、高度に訓練されたピアニストが弾くのと、まったくの素人あるいは訓練前の幼児が弾くのとでは響きが違います。音楽はコードネームとメロディーで成り立っているというような単純なものではないのです。
 和音の構成音のどの音を強めに弾き、どの音を弱めに弾くか。発音のタイミングをまったく同じように揃えるのか数ミリ秒の単位でずらすのか。そんな重箱の隅をつつくような些細なことが重要なのが結局のところ音楽の本質なのではないかと思います。
 ですから、私はスコアを三角や四角や丸だけで表そうとは思いません。もちろん西洋音楽の五線式記譜が最良のものであるとは思っていません。しかし現時点で国境を越えて共通の様式・言語として通用する、ましな方式であることには間違いありません。
 私は世の中のすべての音楽はたった二種類に分類できると思っています。ひとつはその音がひとりの人間の心・体(頭も含めて)の中から生まれてきたもの。言い換えれば神がある人間に自分の代理として創造させたもの。もう一つは他の人間が作った音を借りたもの。
 私は神を信じています。私は神によって生かされています。音は神様から借りた言葉なのだということを忘れないようにしたいと思います。
 これからも一生音に対する模索、葛藤は続くことでしょう。しかし音楽に携わることの喜びをさずけて下さった神に感謝いたします。

長い間、私の拙文におつきあいくださってありがとうございました。

 2008年10月19日    奥 慶一

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※掲載は所属当時

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